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日本の書の歴史
順次追加していきます。
只今、飛鳥時代
・奈良時代
・平安時代
・鎌倉時代
・室町時代まで。
○飛鳥時代(593〜710)
・聖徳太子筆といわれる『法華義疏』
日本の書の歴史で肉筆最古のものが聖徳太子(574〜622)筆といわれる『法華義疏』です。
最近は聖徳太子が書いたものではないといわれてきていますが、書としてみますと、中国六朝時代の
書風にそっくりです。
擬態語を使うなら、スー、グーと筆を運んでいますので、穏やかに見え、厳しさはありません。
ただ、残念なことに、本物は宮内庁が保管していますので、実物にお目にかかることはなかなかありません。
法隆寺関係の展覧会などでまれに出ていることがあります。
○奈良時代(710〜794)
・国家を挙げての写経
奈良時代は写経の時代といっても過言ではありません。国家鎮護仏教の名の下に、全国で写経が行われました。
注目すべきは紫色の紙に金泥で書かれた『紫紙金泥最勝王経』、それから『長屋王願経』、『五月一日経』など
に代表されるいわゆる「写経体」という謹厳な書体で書かれた一群です。
また、『賢愚経』(通称大聖武)も注目です。謹厳な写経体ではなく、肉太な書体で書かれた異質なものです。
ただ、これ以外にも肉太の書体の写経がありますので、奈良時代後期にこのような書き方がはやったとも
言うことができます。
・聖武天皇と光明皇后
奈良時代の遺品として忘れてならないのが聖武天皇(701〜756)『雑集』、光明皇后(701〜760)
『楽毅論』です。
一般的に男性は力強く、女性は繊細な書を書くといわれがちですが、この二つの書を見ますと、
この考えがひっくり返ります。
聖武天皇のほうは一画一画が非常なまでに几帳面に書かれ、繊細であるのに対して、光明皇后のほうは豪快
そのものです。しかも、画がかすれようがお構い無しに筆を運んでいく姿は、意志の強ささえ感じさせます。
尚、ここで紹介したものの実物は正倉院宝物なので、『法華義疏』と同様、なかなかお目にかかれません。
○平安時代(794〜1192)
・三筆の登場(空海 嵯峨天皇 橘逸勢)
平安時代の初めを飾るのは、三筆と呼ばれる空海(774〜835)、嵯峨天皇(786〜842)、
橘逸勢(?〜842)です。
まず、空海ですが、名筆と呼ばれるものに『風信帖』(国宝 東寺蔵)があります。確かに、
書聖と呼ばれる王羲之の書に通じるものがありますが、よく見ていきますと、誇張した表現が見られ、
雑体書の手法さえ見えます。また、『真言七祖像』(国宝 東寺蔵)は飛白という、刷毛で書いたものや、
雑体書のオンパレードを見ることができます。
次に嵯峨天皇ですが、『光定戒牒』というものがあります。これも名筆なのですが、時折字、画の誇張が
みられ、空海の影響をよく受けたのではないかと思います。
そして橘逸勢は直筆のものが残っておらず、『伊都内親王願文』(宮内庁)が伝承筆者としてあるだけです。
この三人は中国の書を日本風にくずしていった始まりといえるでしょう。そして、これに続く
三蹟が、和様の書を確実なものとしていくのです。
・三蹟の登場(小野道風 藤原佐理 藤原行成)
三筆の次は、三蹟と呼ばれる小野道風(894〜966)、藤原佐理(944〜988)、藤原行成(972〜1027)
の登場です。
まず、小野道風には『屏風土代』(宮内庁)『円珍贈法印大和尚位並贈智証大師謚号勅書』
(国宝 東京国立博物館蔵)などがありますが、三筆のような誇張などは見られず、
ズー、スー、ズー、というリズムがみえてきます。まだ本場中国の匂い(道風は中国の書聖王羲之
の再来と呼ばれています)が辛うじてしています。
次に藤原佐理ですが、『離洛帖』(畠山記念館蔵)があります。道風の力強さと行成の艶かしさの中間
とでも言いましょうか。
手紙ですので、少々テンポが速く、日常の書の姿が見えてきます。
最後に藤原行成ですが、『白氏詩巻』(国宝 東京国立博物館蔵)は和様の完成体といわれています。
前二者に比べると艶かしさが漂い、スー、グー、スーのリズムに乗って流れを作り、かつ筆が浮き沈み
していきます。平仮名と一緒に書いてあっても違和感がないものとなっています。
中国ではトン、スー、トンの三折法が唐の時代に確立したのに対して、日本ではこれをくずして
スー、グー、スーのリズムに三蹟の時をもって確定したということです。
ですので中国の書に比べればなよなよしていますが、書が日本のものになった=和様の成立となるわけです。
これは平仮名の書き方にも共通することです。
さて、以降はここで紹介した和様が元祖となり、書の歴史が展開されていきます。
・かなの登場
かながいつ生まれたか?詳しいことはよくわかりません。順序としては『万葉集』に
おける万葉仮名、漢字を少しくずした草仮名、そしてかなとなります。
紀貫之らによる日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が延喜5(905)年の成立となりますから、
寛平6(894)年の遣唐使廃止の頃が一番怪しい。
さて、かなの書が花開いたのが11世紀中頃から後半にかけてです。『古今和歌集』を書いた
「高野切」(3種類あります)、「寸松庵色紙」、「升色紙」、「継色紙」などは、仮名の名品として
讃えられています。是非ともみたいのは流れるような仮名(連綿と言います)、散らし書きなどの技法です。
これは平安貴族の美意識の生んだものといっても過言ではないかと思います。
○鎌倉時代(1192〜1333)
・個性の仮名 藤原定家
仮名の書を見ていますと、時折どれも一緒に見えてきます。本当は違いがあるのに、同じものにしかみえない、
しかも何が書いてあるかわからない、なんてことがあります。
そのようななかで藤原定家(1162〜1242)の仮名は違います。歌人として、また『小倉百人一首』の
選者としても有名な貴族です。
さて、この人の仮名なのですが、平仮名の登場で紹介したものに比べると一種異様な空気さえ漂っています。
連綿もぎごちなくみえたり、ややもすれば上手いのか?という疑問さえわいてきそうです。
しかし、この人の書で画期的なことは、仮名の書に個性を強烈に出したということです。どれもこれも同じ
ようにしか見えない(本当はそんなことはないのですが)仮名書の中で、これでもかと
いわんがばかりの個性が出ています。
しかし、このような個性の強い仮名はもう現れませんでした。「定家流」という流派が後に生まれましたが、
どうみても定家の書にはかないません。
なお、『土佐日記』(国宝 前田育徳会蔵)『更級日記』(宮内庁蔵)などの古典の写本作成なども忘れて
はならないことです。
・後鳥羽天皇の書
後鳥羽天皇(1180〜1239)は、『新古今和歌集』の編纂に関わったり、皇室の紋である菊のご紋をはじめて
使った天皇として有名ですが、どちらかというと承久の乱の張本人というほうが印象深いでしょうか。
さて、書についてですが、平仮名の書き方が漢字にまで溶け込んだ様子が宸筆の『熊野懐紙』からうかがえます。
平安時代中期以降、漢字に平仮名の書き方が浸透していくわけですが、漢字かな混じり文としてもはや漢字と
平仮名の書き方に区別が付かなくなってしまった姿を見ることができます。
今の日本では当たり前に漢字かな混じり文を用いていますが、これが書の世界で起きたのはこのころです。
しかし、以降、書の世界では藤原定家のところでも記したように、個性のある仮名は出てこなくなりました。
それこそ、どれを見ても皆同じということばが当てはまるようになってしまったのです。
・鎌倉新仏教者の書
鎌倉新仏教者のなかでも特に書が目立つのは親鸞(1173〜1262) 道元(1200〜1253)
日蓮(1222〜1282)の三人です。三者の仏教の解釈は、書にも表れています。
親鸞は浄土真宗の祖、阿弥陀如来への絶対的帰依を説いた人ですが、直筆の『教行信証』(国宝 真宗大谷派蔵)
をみますと、切り込みの鋭い、筆で紙を切り裂くという感じさえする書きぶりです。
しかし、そんなに痛い感じはしません。
道元は曹洞宗の祖、ひたすらの座禅を説いた人ですが、直筆の『普勧坐禅儀』(国宝 永平寺蔵)はとても厳しい
楷書です。奈良時代の写経体以来の謹厳な書体といっても過言ではないでしょう。
日蓮は日蓮宗の祖、法華経への帰依を説いた人ですが、直筆の手紙などをみますと、とにかく筆の動きが
速いのです。本尊としている曼荼羅などにも共通して言えることなのですが、言葉がほとばしってくるのです。
情熱的な感じがします。
・尊円法親王の登場
尊円法親王(1298〜1356)という名を出しても、何者?という人がほとんどだと思います。
しかし、日本の書は江戸時代までこの人の書が絶大な影響をもっていました。
尊円法親王は伏見天皇(1265〜1317)の第五皇子。京都にある天台宗の青蓮院の門主だった人です。
この人の書は和様の書と中国からの亡命僧が持ってきた宋・元の書をブレンドしたような
書きぶりをしています。
つまり、和様の優雅さを持ちながら、力強い書を書くことに成功したのです。
ですので、一画一画は三蹟の書きぶりと同じなのですが、画が太くなります。
どちらかといえば、小野道風のものに似ているといえましょうか。
これが青蓮院流といわれる書の形です。
この青蓮院流が後に御家流、つまり江戸幕府の公用書体となっていったのです。
○室町時代(1338〜1573)
・一休宗純の書
室町時代は書の歴史として考えると、あまり目立たない時期です。先にあげた尊円法親王
も室町時代に入りますが、それを除いて日本の書を語るとすると、室町時代は一休宗純(1394〜1481)
しかいません。とんち話で有名なあの一休さんです。
一休は禅僧でしたが、数々の破天荒ぶりで有名でした。その破天荒振りが書にも生じている
といっても過言ではありません。まさに「狂」の言葉が似合う書き振りをしています。
かすってしまおうが、画が太くなろうが細くなろうがお構いなし。しかし、この書き振りが
一休の言葉にも聞こえてくる感じがします。
下手とか上手いではない、書は言葉ということがよく似合います。
○安土・桃山時代〜江戸時代初期(1573〜1640)
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