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隷書とは?

隷書

隷書というと言葉になじみはありませんが、実は頻繁に見ています。日本銀行券のどれでもいいので、その額面表記を見てください。 その書き方が隷書の姿です。
さて、隷書とは何者でしょうか。

1 隷書誕生

隷書は篆書の次に現われた書体といわれています。秦の統一(紀元前221〜紀元前206)以降には もうあったといいますが、本格的に隷書が出てきたのは漢(前漢 紀元前206〜紀元前8、後漢 25〜220)の時代です。 篆書はまさに石に刻まれた書体であるのに対し、隷書は木簡や竹簡に書かれた姿です。刻すから書くへ移り変わっていくわけです。 当時の竹簡などが残っていますが、これらを見てみますと、例えば「下」の字の最終画がやけに誇張されていたり、 横画に「波磔(はたく 横画の終筆を払いのように書く、一字につき一回が原則)」という髯のような姿が見えてきます。

2 隷書の姿

隷書は一般的に横長・扁平といわれますが、「乙瑛碑」(いつえいひ 153年)をみますと ちょうど正方形に入る形で、その他にも結構正方形に入るモノが多いです。
書く世界では横長ですが、刻す世界では篆書の縦長から正方形へ、そして横長へと移行していったのではないでしょうか。 「曹全碑」(そうぜんひ 185年)をみますと、正方形に入る姿もありますが、そのほとんどは横長に収まる姿です。 ここまできますと、隷書の書き方というのが定式化しているといえるとともに、篆書から隷書に石に刻す書体が変わったということになります。
石に刻される書体こそ、当時の中国では正書体といわれていたのです。

3 隷書がくずれる?

隷書は、石に刻すのに相応しい書体となりましたが、木簡や竹簡や紙(紙が現われたのは後漢の時代といわれています) に書くには少々不具合が生じてきました。隷書は篆書に比べて早書きできますが、隷書だけになった時、隷書の早書きが必要となって きたのです。
そこで誕生したのが草書です。草書については「草書とは何者?」で説明しますが、波磔など隷書の特徴 といえるものが消え、筆画も省略されてきた姿が出てきたわけです。
ですが、石に刻された正書体としての隷書は崩れませんでした。草書が形を整えてきた行書、そして全ての書体を 包括した楷書が出てくるまでは、隷書は正書体でした。

4 隷書もまた消え、復活する

隷書が楷書に正書体の座を譲った時、隷書は篆書と同じく、石碑に題を刻す時に現れるくらいのものになりました。しかし、 楷書全盛となってからも唐の玄宗(685〜762)の「石台孝経」(745年)のように隷書で石碑に刻される場合がありました。 ただ、「石台孝経」をみますと、それは隷書の書き方の隷書ではなく、楷書の書き方での隷書(楷書のリズムである トン、スー、トン)で、どちらかというと雑体書の空気が漂っているといえましょう。
具体的にいいますと、「石」という字は5画で書きますが、隷書の場合は口の部分を一画ずつ書きますので、実質6画になります。 転折部分が1画のところを2画で書くのです。しかし、「石台孝経」における転折は、楷書のように1画で書いています。
これが楷書の書き方で隷書を書いた、といえる証拠のひとつです。
時代は下り、清(1616〜1912)の時代になると、篆書とともに復活しますが、 それは正書体としての隷書ではなく、隷書という書の形としてのささやかな復活でした。

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